ご感想

映画『沈黙』をご覧になったかたの中には
「これはキリスト教へのつまずきになるのでは?」という感想を持たれた方もあったようです。
この小説の出版当初はキリスト教会からも批判を浴びたとのこと。
でも実はそこにこそ、遠藤に『沈黙』を書かしめた理由があるのではないかという気もします。
皆様はどのようにお感じになりましたか?

今回の特別番組をお聴きになってやこのサイトのご感想はもちろん、
映画または小説『沈黙』のご感想も、ぜひお分かちください。
皆さまのコメントをお待ちしています。


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9 Replies to “ご感想”

  1. まりも

    踏むがよい、とイエスの声が聞こえたとのことですが、
    ずいぶんとっちらかった軟弱な神の声だな、と思わざるをえません。

    これはイエスの声ではなく、ロドリゴさんの声に違いありません。
    あえて、イエスが声をかけるなら、
    「早く私のために命を捨てなさい」これしかないでしょう。

    しかし、福音のために自分の命を捨てよ、
    と迫ってくるイエスの前には、たじろぎ逃げ出すのが普通で、
    「はいわかりました」とばかりに、火の中水の中に飛び込むようでは、
    頭のネジが何本かはずれているので、少し考えたほうがいいです。

    ロドリゴさんは自分を正当化するために、
    自分の声をイエスの声とすりかえるという罪を犯した。

    しかも、そのことにまったく気づく気配がないことに、
    救いのなさを感じる。

    イエスは人間がささやかな庶民的幸せをまっとうするために、
    わざわざ天から降り下ったわけではなく、
    神の前に砕かれることに真のゆるしと救いと幸せがある、
    それが福音だと知らせに来たわけです。

    ロドリゴさんはまったく砕かれてないし、
    砕かれまくっているキチジローを小バカにしているので、
    どうにもやっかいな人にしか見えないです。

  2. さらら

    そもそも、命よりも大事なものがある、というのが
    キリスト教の教えだと思います。

    ロドリゴは基督は踏み絵を踏むだろう、
    と思ったようですが、
    基督が踏み絵を踏むことはないと私は確信します。

    これは正論ですね。

    しかしながら、
    文学作品として棄教者の立場や思いを日の下に取り戻したい、
    という遠藤さんの個人的な気持ちは尊重したいと思います。

    この作品のなかでまっとうな信仰者と思えるのは、
    殉教者をのぞけば、キチジローです。

    フェレイラとロドリゴは頭よすぎるのか、理屈こねすぎで、
    一周回って、わけわからなくなってますね。

  3. ごんべぇ~

    親は、子供が、苦しんでいたら・・・代われるものなら、自分が苦しんで、子供には、楽(幸せ)でいて欲しいと、望むものだと思います。 イエス様が、私達の罪のために十字架にかかられたのは、たとえ罪ある人間であっても愛しいと思うからではないでしょうか!? 私は、イエス様の御心は、「踏み絵を踏んでもいいから、私のために苦しまないでくれ」~と願っているように思います。
    私より、貴方達が幸せ(愛ある生活を送る)であれば、それでいい~と。

    すみません、映画を観ていないので、私の勝手な想像です(^0^;)

  4. marie

    山根道公先生のインタビュー「背信者ー聖なる連帯に与りし者」を拝聴しました。

    「プライドがあると神の声が聴こえてこない。自分が砕かれていった時、神のまなざしが判る。魂に神の声が届く」という山根先生のお話をうかがい、大変心を打たれた、映画のラストシーンを思い出しました。ロドリゴは、後半生、教会からは離れて(棄てられて?)しまいましたが、神さまのまなざしを感じて生き続けたと思います。だからこそ、スコセッシ監督は、あのようなラストシーンを選んだのではないでしょうか。

  5. 獅子 竜

    踏み絵も偶像かと?
    キチジローのように踏み絵を踏んでも
    生き残る=命を大切にする。
    これに尽きると思います。
    例え、信仰心がなくても、自然や動植物も含めて
    造形物に至るまで、全てが神様の作品ですから、
    信仰に反しても踏み絵は踏んで生き残ってこその
    神様の御心だと思います。

  6. きちキチジロウ

     小学生の時に遠藤と出会い50代の今日に至るまで何度も「沈黙」を読み、そのたびに新鮮な気付きを与えられました。私の受洗は遅く40代ですが、「沈黙」との出会いが決定的な布石となっていたことは間違いありません。
     私は、受洗後も信仰者であることをあまりオープンにしていないのですが、それは自分が「沈黙」の世界を卒業していないからかもしれないと思うことがあります。日本のキリスト者は周囲から迫害を受ける・・・という漠然としたイメージがあるのです。現実には不条理な迫害などを受けたことはない・・にも関わらずです。もちろん、教会の中やクリスチャンの集まりではそんなことはないのですが・・・。このことを考えること自体に結構な罪悪感があります。
     その昔「赤信号、みんなで渡れば恐くない」とありました。もし今の時代に踏み絵があり、自分がそれを目の前にしたら、「そんなものは偶像崇拝だ」とか適当に理屈をつけて、さっさと踏んでしまうような気がします。実際に声高にキリスト教批判をしている人の横で、関わりない風を装っていたことは何度もあります。それなのに、自分の窮地にあっては、みことばを足の灯火にして救いを必死に祈っているのです。
     こんな私はキチジロウーそのものであることに、今回映画をみて気づかされ、強い共感を覚えるようになりました。そしてまた、こんな自分をもイエス様は許して下さる、とも思っているのです。

  7. 辻川公恵

    映画を見て、踏絵―ーそれは単なる板にすぎないのではないかと思いました。だからそれを踏んだとしても、イエス様を否定したことにはならないのではないか… むしろそれを踏まないというなら踏絵そのものを神様としている、つまり偶像崇拝になるのでは、と。
    しかしこれはプロテスタントである私の思うところですから、カトリックの信者にとって、踏絵は、私が思うのとはまた別の深い意味があるのかなと思います。

    ですが、この映画を見て一番心に残ったことは、映画の終わりの方で宣教師フェレイラがロドリゴに言った「あなたが一番大切にしているものを棄てるのだ」という言葉です。ロドリゴは棄教しましたが、心の中までは誰にも侵せないと思います。外から見ればロドリゴは棄教したように思えますが、心の底からイエス様を棄てたとは思えません。

    そして、そのロドリゴのことをイエス様が非難や否定されたとは思いません。イエス様は、ロドリゴが棄教したあと寡黙になり、信仰のことは人生の最後まで一切口にしなかったとナレーターが語っていましたが、ロドリゴのその苦しみや葛藤をご存知であったと思います。そのロドリゴに対してイエス様は深い憐みの眼差しで、優しく見つめておられると思います。

    結局人は、心で信じているものを棄てるのは難しいのではないでしょうか。捨てたように見えても、全くそれを信じなくなるということは出来ないように思います。
    ただ、私の場合、他の人が苦しんでいるのは見るに耐えないので、すぐ踏絵を踏んでしまうだろうと思います。仮にそうだとしても、それが罪にあたるか迷います。人を思って行った行為が罪に問われるだろうか、と考えるからです。

    いずれにしましても、信仰とは、信じるとは、ということについて、深く考えさせられる映画でした。

  8. korin

    映画を観て、踏み絵のシーンで、迫害されても棄教したふりをして、信仰を持ち続ければ良いのに…と思いましたが、だんだんと、なんて深い信仰なのだろう!「ふり」なんて出来ないんだ!と感じました。もし私があの時代に居て迫害されたら…あっさり棄教しているかも…と思いました。先人の方々の生き方に感銘を受けました。

  9. かみのくにとそのぎをモトムくん

    関野先生の番組もそうだけど、信仰は綺麗事じゃすまない。教会学校で子供たちに話しながら、時々不安になる。中高生になって来なくなる子どもたちの理由はもしかしたらこんなところにあるのかもしれません。
    信仰がなければこんなに苦しむことはなかったんじゃないか、って。
    だから綺麗事じゃないありのままを。
    棄教者の歩みを、カイン、イスカリオテユダ、アナニヤとサッピラ、その他多くのこけちゃった人の姿を、ダビデ、ペテロらこけちゃったけど回復した人たちの歩みを見つめて歩みたい。
    番組、期待しています!!

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