特別番組・遠藤周作『沈黙』の真実

 

2017年、日本でも映画が公開され話題となった、遠藤周作の小説『沈黙』。

信仰を捨てなかったがために拷問にあい、殺されていくキリシタンたち。
一方、あまりの不条理と信仰の狭間に苦悩し、踏み絵を踏んだ棄教者たち。
この現実の中で、神はどこにいるのか?

この問いは、東日本大震災から6年を経た私たちの問いでもあるのではないでしょうか。
助けを最も必要としている時、神は沈黙しておられる。

この現実を生きる私たちに、遠藤周作が『沈黙』に込めたメッセージはどう響くのでしょうか。
キリスト教文学研究の第一人者であり、遠藤周作作品をご専門とする、お二人のかたにお話を伺いました。

FEBC特別番組「遠藤周作『沈黙』の真実」

【前編】「背信者ー聖なる連帯に与りし者」
ご出演:山根道公氏
(ノートルダム清心女子大学教授)

◇なぜこんな苦しみが―病床での体験

山根 この作品は、苦しい場面ばかりが起きますよね、理不尽な。その時、「なぜ」といくら問うても神は答えてくれない。
これには遠藤さん自身の病床体験が込められていて、結核で2度手術をしたけれども再発、当時結核は死に至る病だったので、3度目は手術死の可能性があったわけです。そして同時に、入院している周りの人が苦しんで死んでいく姿を見て、「なぜこんな苦しみを与えられるのか、どうして神は何もしてくれないのか」という問いがずっとあった。だけど、ある時に「やっとわかった」と。それは、試練を与えるためでも信仰を強めるためでも罪の意識を自覚させるためでもない。神は自分のこの苦しみ、人間の苦しみに本当に寄り添って、この苦しみを共にしてくれている。誰にもこの苦しみを言うことは出来ないけれどもイエスがそばにいて「その苦しみは誰よりも私が一番わかっている」と一緒に苦しんでいてくれる。そのイエスの眼差しに出会う体験をするんですね、病床で。その時に本当に溢れるような涙が出てきたと。

◇転んで、砕かれて、初めて聞こえた声

山根 聖書の中でペトロが三度イエスを否みますけど、その時にイエスがペトロに眼差しを向けてますね。それは決して責めるような眼差しではなかったわけです。人間はいくら自分で頑張るぞと言っていても、追い詰められたら、やはり裏切ってしまうことはあり得る。それが人間の悲しさでもある。それをわかっていて見つめられる、その眼差しを遠藤さんは描きたかった。ですから踏み絵の場面では、鶏が鳴くわけですね。

でも原始キリスト教の教会は、みんな転んだ弟子たちがそのイエスの愛と赦しに出会って、そこに聖霊が降って始まっていくわけです。ですから最初にロドリゴ宣教師はすごく自尊心を持って、司祭としての義務感を持って頑張ろうとしている時には、逆に神の声は聞こえてこないんですね。そして最後、キチジローと同じく、段々とロドリゴも自分の弱さに気づいて、全部そぎ落とされて砕かれて、もう「なぜ、どうして」と訊くこともなくなって、沈黙して、ただその足の痛さ、心の痛さを感じていく。そうなった時に初めて神の声が魂に届いたんだと思いますね。

◇一番孤独になった時に本当に神と出会う

山根 この小説の一番終わりの場面で、このキリストの愛を知るためには、今までの全てが必要だった、という気づきで終わっていくんです。

それは「夜、風が吹いた」という場面から始まる。この風は「プネウマ(聖霊)」ですよね。まさに遠藤さんは、聖霊が最後に吹いて、すべての気づきを与えていくと描いた。そしてロドリゴが、「主よ、あなたがいつも沈黙しているのを恨んでいました」と言ったら、「私は沈黙したのではない、一緒に苦しんでいたのだ」と。スコセッシ監督が英訳の『沈黙』の序文で書いていますが、神に対して疑問を感じていくことから始まって、それまでの表面的な連帯から外れて孤独になっていき、最後に一番孤独になった時に本当に神と出会う。そして同じように孤独に苦しんでいる人たちと、孤独に苦しんだ十字架のイエスとつながっていく、そこに聖なる連帯が生まれていく。それこそ自分が描きたかったテーマだと言うんです。

長倉 印象的な「聖なる連帯」という言葉ですが、いわゆるヒューマニズムというような言葉でつながるものではないということですね。

山根 そうですね。誰にも理解されないかもしれないけれども、その連帯があると実感した時にロドリゴはすごく喜びを感じてるんです。踏み絵のシーンを思い出す回想の最後に、「踏み絵に血と埃で汚れた足を下ろした。この五本の趾を。愛する者の顔の上を覆った、この激しい感情と喜び」という言葉が出てくるんです。この自分の汚い足を、汚いままに受け止めてくれた、イエスとつながったと。ヨハネの福音書で、弟子たちの汚い足をイエス様が洗ってくれる場面があります。ペトロが拒むと「いや、私が触れなければお前と私との関係はなくなるのだ」と。自分の一番汚い部分にイエス様が触れてくれて、きよめてくれることでつながりが生まれる。喜びが自分の中に起きる。それが聖なる連帯なんだと思うんです。

◇日本人の心に届くキリスト教を

長倉 この作品で、フェレイラの口を通して語られている衝撃的な一つの見解、「日本泥沼論」というのがありますが。

山根 そこだけを抜き出して「遠藤さんは、日本は泥沼だからキリスト教は根付かないと言っている」と言う人がいますが、それはすごく大きな間違いで、作品自体はキリスト教が日本に根付いた姿を伝えようとしているんです。

で、何が根付かないのかというと、西欧のキリスト教というのはギリシャ哲学に根ざす形で作り上げてきたもので、日本人はそれを頭では理解できても、本当に身にしみて実感しきれない部分があると。「沼地」という日本の風土に、西欧の乾燥した食物を植えれば、根が腐るということはあり得るでしょう。でも逆に沼地のような土地で育つものもあるわけです。「福音」という聖書の原点は普遍的な変わらないものだけれど、それが文化の中で育まれて、花開いて実を結ぶ形は色んな物があっていいわけです。それを西欧で出来た形だけが絶対だと言っていると、なかなか根付かない。だから聖書の中に描かれているイエスの眼差し、その原点に立ち返って、その姿を今度は日本の文化の中で生きている人たちにどう伝えたら心に届くのか、その大きなテーマを『沈黙』は試みたと思うんです。
(文責・月刊誌編集部)

 

【後編】「殉教と棄教―泥沼の中に立ち給いし神との出会い」
ご出演:片山はるひ氏(上智大学神学部教授)

片山 本物の殉教というのは、人間の力によるものではないと思います。殉教に近い経験をした乙女峠の「浦上四番崩れ」の方々の言葉によれば、どうやって拷問を耐えぬいたのかというと、「自分の力ではなかった」と。もし強い人が、我慢比べの英雄のように殉教するなら、神様はいらないんです。『沈黙』を観て「モキチとイチゾウは強かったから殉教出来た、キチジローは弱いから出来なかった」ということだと残念です。私なんかもああいう目にあったらすぐに転びます(笑)。でも、もし仮に私が殉教出来るとしたら、弱虫の私の力ではなくて、神の力がその時に与えられるからなのだろうと。だから、人間の弱さと神の力の出会いが、殉教なんだと思うんですね。


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なお、インターネット放送期間は2017年6月末で終了致しました。