大浦天主堂、西坂公園

「日本二十六聖人殉教」、「信徒発見」。
日本のキリスト教史に触れる上で、欠かすことのできないのがこの大浦天主堂です。

かつて、この「史跡紹介」でご紹介したように、(ぜひこちらの記事もご覧ください。)
二十六聖人たちが主に活動拠点としていたのは、京都の妙満寺町と呼ばれるエリアでした。
(正確にはそこで捕えられたのは24人であり、道のりの途中で自ら願って2人が加わっています。)

彼らは京都から長崎の処刑場までの約1000キロもの道のりを、約1ヶ月かけて、
見せしめのために引き回され、歩かされた事が伝わっています。

その姿を見かねた佐賀・唐津の重役であった寺沢半三郎が
最年少12歳のルドビコ茨木に、棄教を条件に命を助けようとしますが、
「束の間の命と永遠の命を交換するのは、意味のないことです。」
ときっぱり拒否した話が伝わっています。

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さていよいよ、刑場であった西坂に着き、十字架にかけられても、
26人の祈りと讃美は止むことがありませんでした。
彼らはむしろ喜びに溢れながら殉教していったといいます。
中でも、優れた説教者であった、聖パウロ三木は十字架の上でこう宣べました。

「私は何の罪も犯しませんでしたが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたので死ぬのです。
私はこの理由で死ぬことを喜び、これを神が私に授けて下さった大いなる恵みだと思います。
キリシタンの教えが、敵と自分に害を加えた人々を許すように教えているので、
私は国王(豐臣秀吉)とこの私の死刑に関わったすべての人々を赦します。
王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望するのです。」

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26人は、2本の槍で身体を貫かれ次々に殺害されてゆきます。
処刑が終わったのは、1597年2月5日の午前10時頃の事。

しかし、その後のキリシタン弾圧は止まず、
後も600人以上がこの西坂で処刑されていきました。


時代は下って、267年後。

幕府の禁教令が緩和されたため、再び海外より宣教師たちがこの地にやってきました。
ベルナール・プティジャン神父の指導により、あの西坂の処刑場をのぞむ立地にこの大浦天主堂が建築されます。

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1864年の12月19日に完成したその会堂には、西洋建築の物珍しさもあって、多くの見物客が集まったと言います。
しかし、1ヶ月後、単なる好奇心だけではない関心を寄せる人々がそこにやってくるのです。

「私のこころは、あなたのこころと同じ」

祈りを捧げていた神父に、ひとりの女性はそのように話しかけました。
そして、「マリアさまの御像はどこですか?」と。
キリシタン達はこの地から絶えておらず、その信仰を守り続けていたのでした。

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昔の記録を読み、キリシタンの生き残りに一縷の望みを頂いてこの地に教会を建設した神父でしたから、
これを聴いて大いに驚き、そして喜びました。
この奇跡そのものの出来事は、海外で話題になり、
また、今まで潜伏していたキリシタン達を大いに力づけて
堂々と信仰を世間に表明させるようになりました。

しかし、弱められたとはいえ、禁教令は依然解かれておりません。
この事態を重くみた幕府は、再び厳しい弾圧を以って
キリシタン達を激しく迫害していくことになってゆくのでした。
(「浦上崩れ」については、ぜひこちらの記事もご覧ください。)

***取材後記***

長崎といえば、日本のカトリックの伝統ある街。
長崎教会群を「世界遺産」に登録する動きがあったり、
街中に流れる時報のメロディは、教会の鐘の音を模したものになっていたりします。

その中でも、圧倒的に有名なのが、この大浦天主堂です。
取材に伺った際も、修学旅行生や会社の研修旅行で訪れている方々で賑わっていました。

・・・と言っても、観光客の皆様から漏れ聞こえてくる会話に耳を済ますと、どちらかと言うとですが、
この大浦天主堂は更に奥にあるグラバー園の途中にあるランドマーク的な存在として思われている様子。ちょっと残念。

「ここの歴史は、とんでもないスゴイものなんだよ!!!」

と、周りの観光客の方々に言って回りたいくらいでした。

美しい聖堂。その背後にある、信仰者の壮絶な歩みの歴史。いや、神様の歴史。
それをどうしたら、この周りの方々に伝えられるだろう。
大きな宿題をいただいた気分です。

***ご案内***
大浦天主堂(カトリック大浦教会)
〒850-0931 長崎県長崎市南山手町5-3

西坂公園
〒850-0051 長崎県長崎市西坂町7-8