伊東マンショ像

伊東マンショ。日本史の教科書にも載っている人物ですから、
名前は聴いたことがあるよ。という方も多いのではないでしょうか。
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永禄12年(1569)頃に日向国に生まれた伊東マンショ。彼がキリスト教を知ったのは、
領地が島津氏に侵攻されたために、大友氏が治める“キリスト教国”豊後へ逃亡した事が最初のきっかけでした。

彼が豊後に居を変えてから、2年ほど経ったころと伝わっていますが、
そこでマンショは10歳の時に、ペドロ・ラモンというスペイン人の神父と出会いました。
地面に棒で絵を書いて遊んでいる時に初めて話しかけられ、
おかしの金平糖に釣られて(!)教会に行くようになったというのですが、
その内に洗礼も受けて、有馬のセミナリオへと入学するのでした。

マンショはそこで、もう一人の神父と出会います。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭です。
この人物は最初期の日本の布教において比較的有名な方ですけれども、
何より特徴的であったのは、組織の一部のアジア人蔑視に反対し、
また、現地人司祭の確保を大きな課題としていた事でした。

だからこそ、何より本土へのアピールと若い人材の育成が
肝心であると考えていたヴァリニャーノは「天正遣欧使節」のプロジェクトを計画します。
そこで推薦されたのが信仰篤く、学業も優秀であった、
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノらの面々でした。
その中でもマンショは主席正使のリーダー格として派遣されます。

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船旅はとても恐ろしいものだったそうです。
今では想像も付きませんが、海外への旅行は何年もかけて行うもの。
ましてヨーロッパとなれば、年単位の時間がかかります。
1582年の2月に長崎を出航し、目的地のリスボンに着いたのはなんと1584年の8月。
その間の9ヶ月ほどはマカオへ滞在していましたが、
船上では、度重なる転覆の危険や、重い船酔い、疫病などに苦しめられつづけ、
特に、病気に関しては、30人余りが落命するという悲惨さでした。
しかし、いざ着いてしまうとその歓待は大変なもので、
スペインのフェリペ二世や、ローマ教皇グレゴリウス13世
などそうそうたる面々から、異例の厚遇を受けた事が今にも伝わっています。

海外で大いに知見を深めた彼ら。帰国は、またマカオを経たルートでした。
そこで恩師であるヴァリニャーノと、少年使節たちは再会を果たします。

しかし、そこで聞かされたのは、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を布告したという最悪の知らせでした。
なんとかヴァリニャーノの根回しによって帰国の叶った4人でしたが、
サン・フェリペ号事件・二十六聖人の殉教などもあり、キリシタンをとりまく状況は悪化。
かつての使節の一人、千々石ミゲルは棄教してしまったといいます。

残った3人は一緒に慶長13年(1608)を以って司祭に叙階されますが、
その4年後、約43歳で伊東マンショは病死します。

はじめは小倉を拠点としていましたが、細川忠興に追放されてからは、
(細川忠興の人物については、ぜひこちらの記事もごらんください。)
九州各地を巡って布教活動をつづけ、最期は長崎のコレジオで亡くなりました。
それは慶長18年(1613)、幕府から禁教令が触れ回られる一年前の事でした。

***取材後記***

この伊東マンショ像は、交差点のただ中にあって、大分県庁を見つめています。
地元の方々にとっては日常風景なのでしょう。わざわざ立ち止まるのは、私だけでした。
華やかな使節として旅をし、でも結局は、時代に翻弄されていく。
そのような中で、世界を見てきた神父として、伝道の業に生きた伊東マンショ。
きっとその歩みの中に、自分が生きた豊後の地(大分)への、そして、この国への祈りを欠くことはなかったでしょう。

おそらく私も、気づかないだけで、時代に翻弄されて生きているのです。
何も見えない私には恐ろしいことです。

でも、この私への祈りがある。
考えてみると、イエス・キリストの十字架も、時代に翻弄された結果でした。

その、全てを知っておられる方の祈りが、伊東マンショという人の祈りと合わせられて、
行き交う車の音に紛れることなく、より強く確実に、響いてくるのです。

***ご案内***
伊東マンショ像
大分県大分市大手町(遊歩公園内)