鏡処刑場跡

大分県竹田市に数多く存在するキリシタン史跡。
この史跡はその名の通り、捕らえたキリシタンを打首にして処刑する場でした。

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別の記事(切支丹洞窟礼拝堂)で触れましたが、
戦国時代末期にこの竹田の地を治めたのは志賀親次という武将でした。
しかし、親次は、豊臣秀吉に改易されて竹田の地を去ることになります。
代わりに文禄3年(1594)より、中川秀成(高山右近の従兄弟の息子)
という大名がこの地を統治することになるのですが、
現存している竹田のキリシタン史跡群の多くは、
この時代に造られたものであろうと研究されています。

さて、秀成自身がキリシタンであったかどうかは不明なのですが、
親次の路線を継承し、他の土地で徹底した禁教が行われる中であっても
この中川家は代々キリシタンに対して“わりあいに”寛容な対応をしていたとされています。
例えば、藩で踏み絵を偽造して、幕府から咎めを受けたという記録が残っていますが、
これはキリシタンに対して抜け道を作ろうとした為ではないだろうか?という説があります。

ちなみに、この処刑場では44人のキリシタンが殺害された事が記録されていますが、
確かに、数百人規模で虐殺されている他の地域と比べると、
迫害は少なかったとも言えるのかもしれません。
そのように定量的に命を数えるのはどこか違う気も致しますが…。

果たしてどのような状況で捕らえられ、そして召されていったのか。
藩も、もはや庇いきれなかった人々であったのか。
詳しく伝える史料は遺されず、今ではこの供養塔がただ建つのみとなっています。

***取材後記***
私が訪れた半年前に、バチカンのチェノットゥ駐日大使もここに来ていたそうです。
ここの裏手には川が流れているのですが、処刑の日、その川の水が、血で真っ赤に染まっていたという言い伝えがあることを聞きました。
流れる水の音を聞きながら、何とも物悲しい気持ちになったのですが、私たちのところに来られて十字架で血を流されたイエス様のお姿を連想し、ああ確かにこの場所でここに生きる私たちのために、イエス・キリストの血も、殉教者たちの血も、ここで流されたのだろうと感じました。
だからここで流れている水は、ただの悲しみではないと思うのです。

***ご案内***
鏡処刑場跡
大分県竹田市大字会々字鏡