加賀山隼人殉教顕彰碑

加賀山隼人興良(かがやま はやと おきよし)。
世間的にはそれほど知名度の高くない武将ですが、
彼もまた、日本の殉教史に於いては欠かせない一人です。

加賀山隼人興良は永禄9年(1566)に高槻城で産まれました。
主君の高山家の影響か、一家は皆熱心なキリシタンであったそうです。
10歳の時にルイス・フロイスから受洗し、
イエズス会の修道院に入っていたこともありましたが、
右近に仕える武士として、明智光秀を討つ山崎合戦などにも従軍しました。

大きな転機が訪れたのは、天正15年(1587)のことです。
主君の高山右近が、フィリピンに流されてしまうのです。
右近から同信の友として紹介された大名・蒲生氏郷も病死してしまい、
加賀山は浪人の身となってしまうのでした。

そんな彼を召抱えたのは、細川忠興。
かねてより、高山右近や蒲生氏郷らと友誼の深い武将でした。
キリシタン史においては、何より細川ガラシャの夫として有名ですね。
(以前、細川ガラシャ関連の史跡をお訪ねいたしました。どうぞこちらもご覧ください。)

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激しやすく、中々性格の難しい主君でしたが、
加賀山は忠実に仕え、各地の戦場で武功を重ねて信用を得てゆきます。
また、領国では伝道をセスペデス神父と共に進め、多くの受洗者を得ました。

この働きについて、主君の忠興は保護の姿勢をとっていたのですが、
ある期を境に、教会を徹底して破壊するなど途中で迫害に転じることになります。
決定的であったのは、慶長19年(1614)の幕府から出された禁教令でした。

やはり、キリシタンを配下に持っていると幕府に睨まれるので、
忠興は加賀山を幽閉して、転宗するように説得を重ねます。
なんと「自分と一緒に地獄へ行こう」とまで言ったと伝わっています。
しかし、家財を没収されようとも、家老職を解かれようとも加賀山は一向に従う事はありませんでした。

この頃、細川の領国である豊前に限らず、禁教令によって全国的に迫害が本格化しており、
京都では徳川秀忠の主導のもと、ある種見せしめの形で元和の大殉教が引き起こされました。
(以前、元和の大殉教関連の史跡をお訪ねいたしました。どうぞこちらもご覧ください。)

そこで、折しも在京中であった忠興は、
火で焼かれようとも決して信仰を棄てようとしない、
キリシタン達のあまりに壮絶な殉教の姿を目にします。

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いくら説得しようとも、拷問をしようとも、
加賀山は信仰を棄てる事は無いだろうということを悟ったのか、
忠興は帰国後すぐに、加賀山隼人の処刑を命じます。

家族に対して「この殉教は喜びだ、むしろ祝いの日である」と言い切った加賀山は、
丘の上に在る処刑場まで、詩編や祈りを唱え続けたと伝わっています。

「イエス、マリア」
加賀山は最期にそう発して、首を打たれました。
元和5年(1619)、54歳の時でした。

***取材後記***
今回は、カトリック小倉教会の入口に建てられた石碑をお尋ねしました。
碑に刻まれている言葉は以下の歌だそうです。

『寄海恋』
千尋より深きおもひの海はあれど
もらししそむべき言の葉ぞなき

小倉城の落成の際に加賀山が詠んだものらしいのですが、
まるで、処刑前の彼の心の内が詠われているような気がします。

「イエス、マリア」
私には、どんな辞世の句よりも深い深い詩に感じられました。

***ご案内***
加賀山隼人殉教顕彰碑
〒802-0084 福岡県北九州市小倉北区香春口1-3-1