黒田如水、またの名を黒田官兵衛孝高という人物は、大河ドラマにもなりましたので、ご存じの方もおられるかと思います。
今回お訪ねしたのは、その如水が晩年に一時期過ごした屋敷跡地です。
縦横無尽に軍略を巡らせた一大軍師としてとても有名ですが、
彼もまた、洗礼を受けた戦国大名の一人でした。
高山右近、他にも同じくキリシタン大名であった小西行長らの影響を受け、
如水が受洗したのは天正11〜13年頃(1583〜1585)と伝わっています。
実の所、秀吉から棄教令が出された際に、彼は右近らとは異なりその命令に服従しました。
ですから、その信仰面については、余り多くが語られる事がないのですが
いくつかのエピソードが今に伝えられています。
例えば、キリシタン大名として名を馳せた大友宗麟の息子、
大友義統に受洗を勧めたのは如水でした。
受洗直後に棄教令が出たために、すぐにその信仰を棄てる事になってしまうのですが、
その約6年後、文禄2年(1593)に朝鮮で大失態をしでかし、失意に沈む義統に向けて
対話の為にわざわざ宣教師を派遣したという話が伝わっています。
また、如水は徹底した“リアリスト”であって、
キリシタンになったのも海外貿易などを有利に進めるための
実利の為という人物評がなされることがあります。
そこでよく引用されるのが、
「神の罰より主君の罰おそるべし。」
(神の罰より、主君の罰の方が恐ろしい)
という発言です。確かに、不信心な感じもしなくはありませんが、
実は、この言葉には続きがあるのです。
「主君の罰より臣下の罰おそるべし。そのゆえは神の罰は祈りてもまぬるべし。
主君の罰は詫言して謝すべし。ただ臣下百姓にうとまれては必ず国を失う。」
(主君の罰より部下による罰の方が恐ろしい。
なぜなら、神には祈る事が出来る、主君には詫びて謝る事が出来る。
しかし、部下や民に疎まれれば、必ず国を失うからである。)
右近のように、どこまでもまっすぐな信仰では無かったかもしれません。
しかし果たして、キリストを全く棄てていたかどうか。
慶長9年(1604)に59歳で没した如水ですが、
博多の神父に自分の遺体を預けるように指示し、
神父たちの今後の保護と教会への献金を遺言して
この世を去った事が今に伝わっています。
***取材後記***
実は、なかなか場所がわからなくて、あたりを何周もして汗だくになってやっとたどり着きました。この近辺は大濠公園もあって、人通りも多いのですが、ここだけは「隠居地」にふさわしく静かな雰囲気でした。
この方の歩みを表面だけ見て評価しない方も少なくないのですが、殉教したらOKで棄教したらNGというのは、あまりにも安易ではないでしょうか。
この場所は私に多くを語りませんでしたが、今の時代にこの日本でキリスト者として生きる私たちに、間違いなくつきつけるものがあります。
同じ国に、こうして命を与えられているのですから・・・
***ご案内***
三ノ丸御鷹屋敷跡ー黒田如水隠居地
福岡県福岡市中央区城内