萩キリシタン殉教者記念公園

浦上キリシタンは有名な津和野だけではなく、全国に配流されました。
ここ山口の萩にも多数のキリシタンが連行されてきた歴史があります。

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慶応3年(1867)の「浦上四番崩れ」では、3000人以上のキリシタンが
長崎の浦上村から全国に連行されましたが、そのうち、約300人が萩の預りになったそうです。
津和野ほど多くの話は伝わっていませんが、多分に漏れず、度重なる拷問と劣悪な環境の中に置かれ、
その内の43人が尊い命を神さまに捧げました。

この出来事を決して忘れてはならぬと、パリ宣教会のビリヨン神父が
明治24年(1891)に、この土地を購入しこの記念公園を建設されたという歴史があります。

また、ここにあるのは浦上信徒の墓だけではありません。
熊谷元直という武将の殉教者の記念もなされています。

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弘治元年(1555)に産まれた熊谷元直は、毛利家の重臣の家でした。
キリシタンであった武将、黒田如水に影響を受け、
天正十五年(1587)のイースターに受洗。
当初はさほど信仰心がなかったものの、大坂での信者たちの出会いなどを経て、
次第に熱心なキリシタンになったと伝わっています。

関ヶ原合戦の後は、大名毛利輝元に仕えつつ萩で領地を守っていましたが、
慶長七年(1602)に輝元より領内の宣教師の追放が命じられると、
キリシタンたちを自分の土地に呼び寄せて保護を活発に行いました。

輝元としては、キリシタン達をよく思っていないのはもちろん、
言いなりにならない熊谷の事も邪魔に思っていたので、
城築の際のトラブルにかこつけて熊谷元直と、
もう一人のキリシタン武将であった天野元信の処刑を命じます。

輝元の使者が持ってきた罪状書と切腹命令を見ると
自分はキリシタンであるので自殺は出来ないと拒否したため、
熊谷は首を刎ねられる事でその最期を遂げました。
慶長10年(1605)、享年50歳でした。

もう一人の天野を含め、毛利領の多くのキリシタン関係者が
この時殺害されたと伝わっています。

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***取材後記***

この墓地の造成に使われているのは、殉教した彼らが真冬に裸で括りつけられ、拷問を受けたその岩。私は、この公園に畏れを持たずして足を踏み入れることはできませんでした。そして自然に、主への祈りの手を合わせずにはおれませんでした。
到着したのは朝7時。住宅街のただ中にあるこの場所で、家々では、日常の一日が始まろうとしていました。その中でただこの場所だけ、静かな風が吹いています。この空間にしばらく身をおきながら、「天国って、本当にあるのだな」と思いました。この人たちの死は、今、十字架の主を指し示しています。神様とともに私たちを見守り続けてくださっている、そして、私たちに語り続けてくださっているのだと感じました。そんな緊張と、不思議な励ましと喜びをいただいて、この公園をあとにしました。

***ご案内***
萩キリシタン殉教者記念公園
山口県萩市堀内1区の3